わたしの、ものさし

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テセウスの船

 TBSの日曜劇場「テセウスの船」を観ている。このテセウスの船って何だろうと思ったら、パラドクスの1つで、ある物体のすべての構成要素が更新されて置き換わったときに、それは基本的に元のものと同じであるといえるのか否か、というもの。

 これはギリシャの話に基づくらしい。以下、ウィキベディアより。

 

テセウスアテネの若者と共にクレタ島から帰還した船には30本の櫂があり、アテネの人々はこれをファレロンのデメトリウスの時代にも保存していた。このため、朽ちた木材は徐々に新たな木材に置き換えられていき、論理的な問題から哲学者らにとって恰好の議論の的となった。すなわち、ある者はその船はもはや同じものとは言えないとし、別の者はまだ同じものだと主張したのである」

 

 ほかにも、

 哲学者ヘラクレイトスの考え方による川の話がある。

 人々が同じ川に入ったとしても、常に違う水が流れている。ゆえに、同じ川に2度入ることはできないというものだ。

  

 なるほど。個別の構成要素の同一性を捉えると、同じもの?別なもの?と考えてしまうかもしれない。仏教の無常観にも通じる面白い話だ。

 しかし、私は、それらを明確に同じものと考える。「同じもの」というと語弊がある。「経年変化をした現在のそれ」という意味合いになるだろうか。

 このパラドクスを聞いたとき、真っ先に思い浮かんだのは人体の組織細胞の入れ替わりのこと。人の細胞は、古いものは死滅し、新しい細胞が増殖する。数か月で人体の細胞すべてが入れ替わると聞いたことがある。そうすると、人は数か月あるいは数年で別人になるのだろうか。

 そうではない。年前とは違うものであっても、その人は相変わらずその人である。

 そのものを特定するのは、個々の構成要素、部品の同一性というよりは、構成されているまとまった物体の継続的な個性や概念になるのではないか。

 テセウスの船は、部品の更新を繰り返して、その当時の部品は無くなったかもしれないが、「テセウスの船」として維持管理され活動している。

 ヘラクレウトスの川も昔浴びた水とは違うけど、その川に入れば、再びその川に入ったことになる。

 細胞は変われども、その人はその人である。