わたしの、ものさし

私の見たこと、聴いたこと、感じたこと、を書いています

関東三十六不動 31番 彌勒密寺

 

 9月9日、重陽節句

 関東三十六不動巡りを始めてみようと思い、この日、岩槻大師へ行く予定だった。岩槻へは自転車で行く。(自転車:ミヤタ、ブルーのル・マン。高速長距離巡航ツーリング車(国産))

 その朝のこと。地元の川口市に九重神社というお宮がある。最近、そこの特徴的な御朱印をウエブで目にし、気になっていた。朝、目が覚めて、なんとなく九重神社のサイトを見たら、九重(ここのえ)だけに、9月9日の九重詣限定の御朱印をいただけることを知った。

 目覚めで入ってきた情報は何か縁があるのだろう。この機会に九重神社にも参拝してみよう。そういうことになった。

 

 まず、九重神社を目指す。

 地図でおおまかに位置をつかんでいたが、道沿いに案内板が見当たらず、数名の人に訊ねてようやく10時ごろに辿り着いた。

 境内に行くと、既に御朱印申込みの行列が出来ていた。結局50分くらい並んで、ようやく受付が回ってきて、仕上がり時間をうかがうと、なんと3時間程度かかるとのこと。3時間のロスは今日の予定が大きく狂うため、九重神社は岩槻へ行った後でもろってくることにした。

 九重神社では菊酒のお神酒をいただき、近所の密蔵院で休憩、一路、岩槻へ向かう。

 

■31番 喜多向厄除不動尊 岩槻大師 彌勒密寺

 1時間半程度走って岩槻大師、弥勒蜜寺に到着する。

 1時ごろに着いたが境内には他の参拝客がいない。人がいないほうが落ち着けるので、これはツイている。

 参拝を済ませ、受付に行き、写経を納め、関東三十六不動巡り専用の御朱印帳表紙と御朱印をいただく。

 御本尊は五大明王となってる。御朱印にも5つの梵字が書かれているように見える。

 

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 ここは五大明王が御本尊だが、不動明王に対面し、ひらがなで書かれた真言を見ながら唱える。真言を覚えられないので、写真に撮った。後々見ながら暗記したい。

 

 「御真言は9回唱えてね」と受付のおば様がアドバイスしてくれた。

 9回唱える。9回には意味があるらしい。36不動の「36」は9の倍数でもある。9にどういう意味があるのだろう。4番目の素数でもある。1ケタ最後の素数。煩悩の数108は9×12だ。

 

 受付のおば様がとにかく元気で明るい。「全部回ったら、またここにおいで」と送り出してくれた。南関東に広がる三十六不動を果たして今年中に巡れるだろうか。かなり遠い場所もあるが、自転車で行けそうな場所は自転車で巡ることにする。

「大丈夫、お不動さんもお大師さんも逃げないから」と何気ないおば様の言葉にはっとした。

 そうか、御開帳の年とかは、所詮人間が決めたもの。その年に回りきるとかなんとかは本当のところは意味がない。もっといえば、36カ所のお不動さんを巡っても、なんら自分は変わらないし、運気があがることもないかもしれない。

 だって、すべては無で空であると般若心経にあるではないか。仏教の教えと札所めぐりにやや矛盾を感じつつも、まあいいか、頑張らずに時間に追われずにマイペースで巡ってみよう。そう思った。

 

 その後、九重神社に戻り、無事に御朱印をいただく。

 一般論として、御朱印はお寺の方が凝っているし、達筆だと思う。

 なぜなら、もともと寺に写経を納めた証として御朱印を出していた。寺が本筋であるし、寺の方は、常々、写経や葬祭など寺の用務として毛筆で書くことに慣れているからだ。

 

 関東三十六不動巡り、つづく。

メキシコのララムリ族と加藤君

 メキシコにララムリ族という素朴な暮らしをする民族がいて、山岳を舞台にするマラソンレースにその民族の方が参加した。スポーツウエアとランニングシューズの出で立ちではない。民族衣装というか、とにかくマラソンをする格好ではなくて、靴もサンダルだ。そして、上位をその民族の選手が獲得。そのため、マラソンの世界ではその民族が一躍有名になっているようだ。

 そのララムリ族はメキシコの山岳地域で暮らし、日々、山道を生活のために何キロも歩いている。標高がやや高い地域であり、日常の生活自体が低酸素の負荷がある中で、山岳レースのトレーニングになっているということだ。

 ララムリ族の選手たちは、特にマラソンの練習はしていない。しかし、スカート姿とサンダルで走ったララムリ族の女性が優勝したことさえある。

 このことを知った時、私は高校時代の同じクラスの加藤君を思い出した。

 彼は写真部だった。写真部といえば運動の疎く、体育系部活の人よりも体力に劣るというのが相場だ。しかし、高校行事のマラソン大会で、確か3位になった。かれは基礎体力、そもそもポテンシャルが高かった。見た目は確かにワイルドで豪快なところがあった。通学は自転車だったと思う。

 とにかく、息巻く野球部、サッカー部、ラグビー部を差し置いて、加藤君が3位に入ったことは珍事だった。地味でスポーツ的に無名だった彼が上位になったことについて校内で話題になったのか、なんとなく黙殺されたのかは記憶にない。

 さて、メキリコのララムリ族。

 こういう方たちを見ると、ヒトの強さの可能性を感じるし、いわゆる先進国で近代的なトレーニングメニューを一生懸命こなす選手たちは何なのだろうと思う。いわゆる恵まれた文明生活を私は捨てるつもりはないが、文明とか便利さから遠い人ほど、ヒトの本来の強さを引き出し開花させることができるのだと感じる。

その季節らしい天気が一番

 8月に入って雨の日が続いた。涼しくて過ごしやすいのはいいが、やはり夏らしくない日が続くと、感覚的にマズイ気がする。

 この長雨はオホーツク高気圧の張り出しの影響らしく、いわゆる「やませ」が発生したのが原因だ。「やませ」は、学校の地理で学んだ記憶がある。教科書ではなく実際に生活の中で体験してみると、気温が低く日照時間が少なくて、夏らしさがない。これではいろいろと経済面でも影響が出るだろう。特に、関東から東北の農業にはダメージが出るはず。

 江戸時代に、しばしば大きな飢饉が発生して多くの人が亡くなった。その飢饉の原因の1つが、この「やませ」による不作。今のようにビニールハウスもなければ、冷夏に対する技術もなく、他の地域からの食糧の流通もなかった昔では、文字通り死活問題。大変困ったに違いない。

 やはり、その季節らしい天候が一番のようだ。

 涼しい日々が続く中で、高校野球も終わり、あっという間に8月も末日になった。暦の上では、すっかり秋。日もだんだん短くなってきている。

 秋冬の季節もまた良し。先日、ツイードジャケットの袖の直しを出し、冬の準備をしている。

カール

 明治製菓のカールが東日本で販売停止になるという発表以来、カールを見かける度に買っている。(昔からカレー味が好きだ)

 カールは発売から40数年。自分の人生とともにあった身近なお菓子。小さいころに食べたお菓子は強烈に刷り込まれるせいか、大人になっても選んでしまう。そのためか、お菓子といえば、「ポテトチップスの塩味」とか「かっぱえびせん」といった定番を好む。(流行の味や限定味には手が出ない)

 カールの東日本の販売停止を聞いて、確かに、ここずっとカールを買っていなかったな、と反省した。そういう人が多いから、販売縮小になった。商品は消費者の支持があって持続できる。商品は消費者が支え、滅ぼしもする。

 明治製菓にすれば、ふわふわで場所をとる100円のカールを製造販売するのは費用対効果からすれば分が悪い。今ヒットしている明治の「ザ・チョコレート」は嵩張らず、単価も高いので収益率が良いのだろう。カールの生産ラインをチョコレートにシフトするのは、経営戦略として当然だ。最近は少し高価でもそれに見合った質のものが選ばれる。そうであれば、スーパーリッチなカールを展開するのも手だが、私がアレコレ考えることではない。

 とにかく、幼いころからの定番のお菓子が買えなくなることは寂しい。

たとえば、一流パティシエが作る高価なケーキとカールのどちらが偉大かいう議論はナンセンスだが、あえてするとすれば、私はカールとしたい。なぜなら、国民的に広く認知されており、日本人ならおそらく一度は食べたことがある、あるいは少なくとも見たことがあるに違いない。より広く、多くの人に気軽に親しまれ、愛される商品こそ尊い

 今後、カールの二の舞を防ぐために、私の定番であるカルビーかっぱえびせんを定期的に買おうと思う。

 

明治 カールチーズあじ 64g×10袋

明治 カールチーズあじ 64g×10袋

 
明治 カールカレーあじ 66g

明治 カールカレーあじ 66g

 

 

日本の謎の休みの取り方

 今朝の通勤電車は空いていて快適だった。通常の平日に比べて4割くらい少ないだろうか。東京は、これくらいの人数が丁度よい。普段が過密すぎる。

 

 フランス人が日本人の夏休みの取り方に違和感を覚えるというニュースがあった。国や民族が違えば、休みの取り方は違うだろうが、私も日本の休みの取り方は以前からおかしいと思っている。休暇に関する違和感は、おそらく日本人の多くがおかしいと思っていて、ただ、あまり口に出さずにいるか、行動に出さない(出せない)だけだろう。

 

 日本の休みの取り方のおかしさ。

 まず、みんなが一斉に、ほぼ同時期に休むということ。ゆえに観光地は混雑し、休日なのに変に疲れてしまうこと。

なぜ、満員の通勤電車から解放される休日に、高速道路や新幹線で渋滞や混雑を味わうのか。観光地で混雑に遭い、アトラクションに1時間も待つのか。

 不思議だ。みんなと同じ時期に休むことにおいて、おそらく謎の安心感があるのだろう。日々の仕事に追われているから、みんなと一緒に休めば取り残された感はない。

 

 2つ目は、短いこと。昔に比べれば年間の休日も増え、労働時間短縮の傾向になっている。しかし、欧米に比べれば短い。社会人になったら長い休みが取れない、長めの旅とか趣味に没頭するとか、海や山でのんびり過ごすことができないという環境、社会人になったら休日を十分取れないという環境は寂しいし窮屈だ。

 

 最後に3つ目として、夏休みは「何かをしないといけない」という、これも謎の強迫観念がある。これは休みが取りづらく短いから、有意義に活用したいし、するべきだということだろう。休みが長ければ、自然と余裕もでて何もしないことへの焦りも出てこない。

 いずれにしても、休みの日には何かをしなければいけない、何もしないで過ごすのは勿体ない、という感覚が前提にあるのもおかしい。結果的に何もしなかった場合、空虚感に陥ったり、後悔したりするのではないだろうか。もちろん、計画的にやりたいことをしたり、アクティブに行動する休日も素敵だが、特に予定もなく、のんびりと何もしない休日であってもよいのだ。

 

 かくいう私も、11日からの連休を無為に過ごし、なんとなく勿体なかったなという念が正直あるのだが。。