わたしの、ものさし

私の見たこと、聴いたこと、感じたこと、を書いています

香りのマナー

 たとえば、「L'OCCITANE(ロクシタン)」のハンドクリーム(ローズ)の香りは嫌いじゃない。だけど、他の人がつけていて同じ部屋にいると、匂いに参ってしまう。香りがきつすぎるのだ。香水も然り。

 通りすがりの人から仄かに香る程度でちょうど良い。ずっと香っていると、いわゆる生理的につらい。スメハラとはこういうことを言うのかと実感した。体温高めの私ならすぐに香りを飛ばせるが、体温低めの女性がつけた日には香りが長持ちで困る。

 匂いの好みは人ぞれぞれだけど、結果的に他人を不快にさせる香りの纏い方は、マナー違反、もっといえば暴力になるのだろう。

 個人的には人工的な香りほど苦手。洗濯洗剤、柔軟剤の香りが人気のようだが、私に言わせれば臭い。安い洗剤ほど臭いのだが、アメリカのダウニーの香りも苦手だ。ずっと嗅いでいると気分が悪くなり頭痛がしてくる。

 自然の匂いである体臭もくさいし気にはなる。男脂臭とか加齢臭とか。でも不思議と人工的な香りよりはダメージが少ない。

 思うに、香りの究極のマナーとかおしゃれとは、未加工の天然の香りなのだと思う。たとえば生け花からの香りとか、新しい畳(干し草)の香り。

猛暑の数字を眺める

 猛暑日が続く。

 私は子供のころは、今よりも冷房がなかったし、夏はそれなりに暑かったけれども、ここまで酷い暑さではなかった気がする。寝苦しい夜もあったけど、夏の夜は涼しいという記憶がある。

実際どうなのだろうか。過去のデータを気象庁のサイトで調べてみた。

 

 1980年(38年前)。

地元の埼玉の8月の気温を眺めると、確かに35度以上の猛暑日が無い。この年は冷夏だったのだろうか。最高でも32度。そして最低気温が25度以下で、いわゆる熱帯夜の日がない。夜はそこそこ安眠できたのではないか。しのげる暑さといえる。

 1985年(33年前)。

同じ埼玉の8月では33度以上の日が14日程度ある。ただ、25度以上の熱帯夜が6日と少ない。

 1995年。

この年の8月は、35度以上の猛暑日が15日もあり、現在並みに暑い。

 ざっと3年のデータを眺めてみただけだが、年々夏が暑くなっていることが分かる。

 

 寒さに対しては、自分の体を温めればいいのでどうにかなるが、暑さに対しては自分のいる空間の温度を下げる必要がある。要は冷房をつければいいのだが、冷房がないと対応のしようがない。極端なことをいえば、大規模停電が起き電気が使えなくなれば、ただ暑さをやり過ごすしかない。

 しかし、人は環境に慣れるもの。猛暑日を何日も過ごすと、例えば、暑いであろう30度であっても涼しく感じるから不思議。

 

 世界の天気を見ると、ヨーロッパの主要都市は緯度のせいか、東京よりも涼しい。日中の気温が高いところでも、最低気温が20度を切ったりするので、朝晩は涼しい。

 また当然南半球は冬で、オーストラリアのシドニーの気温を眺めると、夏場に行ってみたくなる。

桜が咲き、散りだすころに

 人事異動の季節になった。私の部署でも数人が異動する。毎回、異動者を送別するにあたり思うのは、この人たちともっと交流を深めておけば良かった、ということ。

 職場の同僚たちとは日々日常的に顔を合わしているので、つい、いつでも飲みに行ける、酒を手段としないまでも、何らかでコミュニケーションがいつでも取れる意識があって、結局、そういう機会を持たない。そうして送別会のときに、もっと親交を深めておけばよかったと思う。

 結局、人なのだと思う。どんな場所で、どんな組織に所属し、どんな仕事をして、どれだけ成果を出したとか、稼いだとかというよりも、どんな人と一緒にどのように過ごしたのか。これが一番大切ということだ。

 毎年この桜が咲き、散りだすころにある別れのたびに思うことを、常日頃の意識に昇華していたい。たぶん、面白い人生のコツってそのへんにあるのだ。

10番目の男

 ブラッド・ピット主演の映画「ワールドウォーZ」は好きな映画の一つで、しばしば繰り返し観ている。要するに原因不明だがゾンビがアウトブレイクするパニック映画なのだが、話のディテールが面白い。続編があるらしいので、楽しみに待っている。

 ところで、この映画の中で、イスラエルの情報機関がゾンビの危機を察知し防御に成功した理由として「10番目の男」の話をするシーンがある。

 「10番目の男」とは、過去にユダヤ人が察知し回避できなかった民族的な悲劇を教訓にし、同じ情報を基に9人が同じ結論を出した場合、10番目の男は9人に対して(内心はどうであれ)とにかく反論し、9人が間違っている仮説を立てる義務があるというもの。

 これは組織でありがちな集団的な思考、常識的な論理が絶対で、万一のことはまず起こらないだろうという思い込みから生じる甚大なリスクを回避するための仕組み。イスラエル諜報機関で採用しているルールらしいが映画の中の話か事実かは不明だが、これは非常に興味深い。

 普段、我々は、常識、世間体、過去の実績、多数意見、権威ある者の見解などに弱く、これらに盲目的に従ってしまう。少なくとも無視できない心理にある。

 同様に、その組織内のコンセンサスや、会議での合意、同業者の解釈といったことも、正しい、少なくとも大きな間違いはないという前提で受け入れてしまう。これらは、普段と変わりない事態への対応では有効だろうが、実は今までの対応事態が間違っているということさえ有り得る。

 日本は調和を重んじ、孤立した意見は疎んじられるが、この「10番目の男」の仕組みは、いろいろな組織、コミュニティーで取り入れると面白いし、何かを良い方に変えるトリガーになるかもしれない。

 

 ということで、ほぼそういうものだという事柄に対して、あえて私は「10番目の男」としての反論を書いてみようと思う。(内心はどうであれ)

I am what I eat.

 私の体は、私が食べるものから出来ている。

 I am what I eat.

 だから食べ物、飲み物は、いい加減にできない。

 

  同様に、私の心は、私の見たもの、聞いたもの、感じたものに大きく影響を受けるのだと思う。

 だから、見るもの、聞くもの、を可能な限り良いものにしたいし、嫌な感じのものには近づきたくない。