わたしの、ものさし

私の見たこと、聴いたこと、感じたこと、を書いています

思い出深いクリスマスは、ありますか

 クリスマスという感じのしないクリスマスを過ごした。

 もともとクリスマスとか年末年始の、どこか世間が浮足立った雰囲気が苦手。なんでそんなに浮き足立つのだろう。宗教的行事でないならば、商業主義に振り回されているわけだと醒めた思いもある。

 

 そんなクリスマスでも、思い出深いクリスマスがある。

 高校3年のときのクリスマス。当時、進学校に通っていた私は、受験勉強にあけくれていた。私は日本史が好きで、それなりに日本史の成績は良かった。日本史の先生の授業が面白かったおかげでもある。

 その日本史の先生はクリスチャンだった。その先生が生徒たちに、良ければクリスマスの日にうちに来てもいい、と言った。それを真に受けて、友人数名と先生の家に伺った。男子生徒だけのむさ苦しい面々である。

 先生の家はごく普通の質素なお宅で、広く快適とは言えなかった。奥さんが手料理を準備していて待っていてくれた。食事に入る前に、先生が祈りを捧げた。クリスチャンのクリスマスなのだから、そうなのだろう。クラッカーやらクリスマスソングはない。ただ、静かで卓上にキャンドルの火が灯っていた。

 厳かに、先生が祈りだす。そのシーンが今でも忘れられない。

 

この子達は、まだこの若さで、受験という壁とプレッシャーに直面し、もがき苦しみ、これから試験に耐えていかねばなりません。

主よ、どうかこの子達をお守りください。

乗り越える力を与えてください。この子達に祝福を与えてください。どうかお願いします。

 

 そんな祈りだった。自分の幸せではなくて、他人の幸せを祈る姿は美しい。

 先生の表情には、普段の授業でみせる明るさはなく、真摯に純粋に神に祈る姿を目の当たりにして、なぜか涙が出てきそうになった。

 その後、今のように華やかではなく、高校生男子としては満腹しない量の料理を食べて、雑談をして帰った。

 キラキラしたクリスマスではないが、あの瞬間のことは今でも覚えているし、貴重な思い出としてある。きっと、これが本当のクリスマスの過ごし方なのだろう。静かな夜。音は祈りの声のみ。

 クリスマスは、何を食べるか、どんな酒を飲むか、どんなな場所で過ごすかではない。どんな人と一緒にいるか、ではないだろうか。

 

 

初めて裁判を傍聴した。

 争いといえば、先日、仕事の関係で某裁判の判決を傍聴した。

 裁判の傍聴に行ってきて、と上司から急に言われて戸惑った。今までに裁判を傍聴したことがなく、裁判所の場所や裁判所への入り方、傍聴の手続を知らない。裁判の現場を見ることは、気になる店に初めて入るのとは訳が違うのだ。

 時間が迫っていたので地下鉄に乗り、東京高裁に向かった。結論からいえば、裁判の傍聴は簡単だった。

 裁判所に入るには、飛行機搭乗時のセキュリティーチェックはあったが、誰でも簡単に入ることができ、本日の公判情報のパネルを見て、興味関心のある裁判を基本的に事前予約なしに簡単に傍聴できる。(社会的関心の高いニュースにでるような裁判は、傍聴する際は抽選らしいが)

 裁判の傍聴が簡単にできることを実体験して、思ったことは2つある。

 1つ目は、当然ながら日本は開かれた裁判制度であること。国によっては、そもそも公正な裁判制度自体が無い。

 2つ目は、開かれた裁判であるがゆえに、全く知らない第三者が傍聴することで、裁判の中の発言で、原告、被告の個人情報や状況を知り得てしまう怖さだ。判決理由には、それぞれの主張とそれへの裁判官の判断が説明されるが、事細かに説明されている。もちろん法廷内は撮影や録音は禁止だが、聞いているだけでもいろいろと生々しい事情を知り得てしまう。入った法廷には数人の傍聴者がいた。事件との関係が不明だが、中には裁判傍聴を趣味として、片っ端から傍聴している人もいたのかもしれない。

 

 人生初の裁判の傍聴(刑事事案)をした感想としては、一応、大学の法学部を卒業した私としては、罪刑の構成要件の争いは、その議論を詳しくは理解できないが、なんとなく言わんとすることについては感覚的に分かった。また、裁判を巡る人生模様まで出てきて人間味溢れ、ドラマチック。面白かった。機会があれば、また傍聴するのも良いだろう。

 傍聴するならば、様々な人の人生に大きな影響を及ぼす場に立ち会う以上、それなりのきちんとした態度と気持ちで傍聴に臨むべきだろうと思う。

 

 

解決しない人間関係の揉め事

 職場の人間関係での揉め事は厄介だ。大概は理屈ではなくて、うまく言葉で説明が付かない感情的な何かが原因だ。だから、たぶん解決しないし、最適解もない。特に、女性どうしの場合は。

 

 人事異動でいろいろな部署で様々な人間関係のもつれを見てきたが、職場で人間関係が上手くいかない話はどこにでもある。今の部署にも、女性どうしの揉め事がある。

 私は、職場の同僚だからといって、仲よくする必要はないし、嫌いな人がいてもいいと思っている。ただし、その人間関係によって業務に支障が出ては困る。人間関係の揉め事があるにせよ、社会人、職業人として、まずは仕事をきちんとすることが基本的なマナーだろう。

 

 で、当事者双方の言い分を聞くと、やはり理屈ではない感情的な何かの食い違いがあるようだ。(女子高校生か!という感じだ)

 いずれにしてもこういう場合、どっちが悪い云々の問題ではない。上司が割って入り、理で解決するものでもない。(そうはいっても、上司が入らざるを得ないのだが)

 私に言わせれば、この手合いは双方に何らかの問題があって、どっちもどっちということだ。さらに経験上、「私が正しいと大声で主張し、能弁で愛想が良い方」が、実は性質が悪かったりする。(「敵は味方のフリをする」の法則)

 とにかく、本当のところは当事者以外誰も分からないから、推測は無駄のようだ。

 

 このような争いで、1つ言えるのは、双方ともヒマだということ。

暇だから争っていられる余裕がある。暇が故に相手の嫌なものを見ていられる時間がある。多忙でバタバタしているならば、揉める以前にとにかく仕事に追われるものではないか。よって、当面の打開策は、当人たちに仕事をどんどん与えること。私はそう考えている。

明晰夢

 夢の中で「これは、自分が見ている夢の中だ」と認識できる夢を、「明晰夢」と言うらしい。この明晰夢の中では、夢をある程度コントロールができるし、現実の世界では無理なことでも自分の思ったことが出来るので楽しい。

 以前、私はこの明晰夢を数回見たことがある。そのときはスーパーマンのように空を飛んだ。そのとき、夢の中で「これは夢だ」と分かり、高いところが苦手ながらも夢の中のためか恐怖感はなく、とにかく「飛べる」と思って空高く飛んだ。夕陽の空の中を地上から100mほど上空を飛んでいて、とても美しい風景だった記憶がある。

 その後、明晰夢をなかなか見ることができない。この明晰夢について調べると、明晰夢を見やすくするコツがあるらしい。

 その中のひとつをここ数日試している。自己暗示のようなもので「次に見る夢を、自分は自分の夢であると認識できる」と寝る直前に言葉に出すというもの。しかし、そう簡単に明晰夢を見ることはできていない。ただ、寝る前に「こんな夢をみたい」と思ったことに近い内容の夢を数回に1度は見ている。

  

 睡眠時間を6時間としても、生きている時間の少なくとも25%は寝ている時間になる。そのときに見る夢の内容は、人生に大きな影響を与えるだろう。そして、人によっては無駄と思えるかもしれない睡眠時間が、もっとも楽しいオリジナルのエンターテイメントへと変わる。

 今後も明晰夢を見るコツとやらを色々試し続けて、夢を自在にコントロールできるように挑戦してみようと思う。

 

 

今と昔のインフルエンザ

 毎年、子どもがインフルエンザに罹る。ワクチンは接種していない。ワクチンを接種しても罹るので、数年前からワクチン接種を止めてしまった。たとえ罹っても、抗インフルエンザ薬ですぐに熱は引いてしまい、症状は楽になる。

 私が小学生の頃、インフルエンザという言葉は聞いていたが、身近で流行って学級閉鎖になった記憶がない。あっても、数年に一度だったように思う。ところが、今は、毎年子どもの学校でインフルエンザが流行り学級閉鎖がしばしば発生する。昔と今の流行り具合の差は、何なのだろう。

 一番の原因は、生活上の行動範囲の広がりではないかと考えている。私が小学生のころは、日常の生活は町の中で完結していた。買い物は近所の商店街かスーパーで、電車に乗って映画を観に行ったりするのは、ちょっとしたイベントだった。

 しかし、今は違う。子どもは親と一緒に数キロ離れたショッピングモールにも行くし、車でシネコンに行き、映画を観たりする。塾通いも一般的になり学区を超えた行動範囲と広くなった。その分、インフルエンザなどの感染症が拡大しやすくなったのではないか。