わたしの、ものさし

私の見たこと、聴いたこと、感じたこと、を書いています

豊川稲荷東京別院

 東京の都心にある豊川稲荷東京別院は以前から気になっていた。

 稲荷とあるが、ご本尊はダキニ天(吒枳尼天)という仏教系の仏様になる。白狐に乗った天女の姿とされている。

そこで、参拝は神社式か、お寺式かどちらなのだろう。神仏習合で神仏がまじりあっているのはよくあるが、豊川稲荷はお寺式の参拝になるようだ。

 関東三十六不動巡りのメトロ南北線沿いの目黒不動、等々力不動を巡るにあたり、まずは豊川稲荷に参拝することにした。

 青山通り沿いにある豊川稲荷東京別院は都心にありながら、その境内の空気が澄んでいて清らかさがあり、とても心地よい場所だった。木々が高く周囲の無機質なビルを隠しているのもあって、東京の都心であることを忘れてしまう。

 

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 境内には七福神といくつかの稲荷社があった。参道や境内には狛狐がたくさんいて、無礼者は許さないという気迫を感じる。

 奥の宮はこじんまりとしていて、祭壇も近い。本堂よりこちらの方が落ち着く。気後れせずに扉を開けて上がった方が良い。祭壇には、確か鏡のようなものがあって、神社の雰囲気がある。でも、祝詞ではなく、熱心に経文を唱える方がいたので、やはり仏教式だ。

豊川稲荷東京別院は、出世、成功、富の祈願などで信仰を集めているようだ。

 写経を収め、御朱印をいただく。達筆で美しい。

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関東三十六不動 25番 皿沼不動尊、26番 西新井大師、12番 志村不動尊

 この日は残暑も優しく爽やかな秋晴れで、サイクリング日和だった。そこで、自転車で都内の近場の札所を目指すことにした。

 

 国道122号から荒川サイクリングロードに入り土手の上を走る。地図を見ながら、皿沼不動尊を目指す。土日の都内の道は比較的交通量も少なくて、道によっては走りやすい。

 

■25番 皿沼不動尊 龍光山 永昌院

 大通り沿いにある永昌院には1時間程度で到着した。

 参道や庭園はなく、通りからすぐに建物の階段を2階へ上り、ご本尊安置の本堂となる。大きなご本尊を間近で拝むことができる間取りで、参拝者としては非常に有難い。

 同じく三十六不動めぐりをされている老人も後から入ってきて、お不動さんの真言を唱えていたが、すぐに出て行かれ、基本的に参拝者は私ひとりだけの状態だった。

 

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 続いて、西新井大師へ向かう。

 皿沼不動から自転車で15分程度の近さだった。

 三十六不動めぐりをして色々なお寺を訪れることになるが、規模や賑わいやご対応の仕方などは、お寺によって本当に様々。

 

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■26番 西新井大師不動堂 五智山 總持寺

 西新井大師は、関東三大厄除け大師だけに、境内は広く、縁日でもないのに参拝客が多い。参拝時に護摩焚きが始まったので、本堂に入り、休憩しながら様子を拝見させていただく。護摩焚きが始まると、ご本尊の扉がおそらく電動で開いた。ハイテクなご時世だなと思いつつ、ご本尊はいつでもオープンにしてほしいなとも思う。

 関東三十六不動巡りの御朱印は、専用の表紙に閉じるタイプで「差し替え式」の専用の用紙に御朱印をいただく。そのため、関東三十六不動巡りをしている方は、それと分かりやすい。ここでも、三十六不巡りをされている年配の夫婦に会った。すでに多くを回っているようで、巡礼は結構大変ですよ、とおっしゃる。そうですよねと答えたが、埼玉、東京、千葉、神奈川に36カ所が広く散っているので、すべて巡るのはそれなりのエネルギーが必要だ。

 ここで、写経を忘れたことに気が付いた。お寺で御朱印をいただくときに、納経しようと夜な夜な写経しているのに。

 

 

 環七を走って志村不動へ向かう。

 環七を自転車で走るのは怖い。自転車道が走る路肩スペースが狭く、すぐ横を容赦なく自動車が走っていく。環七は自転車乗りに優しくない。できれば環七は自転車で走りたくはない道だ。

 国道17号沿いの「志村」付近を目指す。自転車と停めて、地図を見るのが面倒なので、大まかな検討を付けていく。神社仏閣は、都心であっても大概は大きな木があるし、大きな瓦屋根も目立つので、数十メートルまで近づけば、なんとなく分かる。

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 ■12番 志村不動尊 宝勝山 南蔵院

 国道17号沿いにあるこの寺はコンパクトながらも落ち着いていて静かな境内で気持ちが良い。本堂は近代的な建物だが、参道の雰囲気や古びた石仏に歴史を感じる。本堂とは別の不動堂もとてもいい感じだった。

 このお寺には、見覚えがあり、いつか来たことがある気がした。記憶をたどると、知人の葬儀がここで行われ参列したのを思い出した。彼は若くして病気で亡くなった。もう6年くらいになるだろうか。

 

 

 

 

 

関東三十六不動 30番 総願寺

 秩父鉄道御花畑駅から乗車して東武伊勢崎線加須駅まで移動。

 加須駅から総願寺までは徒歩約25分とある。自分の足ならもっと速く着くだろうと歩き出したが、初めて訪れる場所で地図を見ながらなので、やはり25分程度かかってしまった。歩くのが苦手な方や猛暑日では、タクシーかバスを利用する方が良いかもしれない。 

 

■30番 不動ヶ岡不動尊 總願寺 

 総願寺は、一つひとつの建物が大きく重厚で、歴史を感じる境内。本堂の床が地面から高く、急な階段は油断できない。

平日の夕方近くのせいか、参拝客は、ほぼおらず、受付で呼び鈴を押してお寺の方を呼んだ。

 本堂にあがっての参拝はできず、通常の御賽銭のところから参拝してくださいとのこと。御開帳だから少なくとも巡礼者は堂内に入れるかと思っていたのに残念。不動明王の扉も締まっており、お目にかかれず。御開帳といってもお寺によって状況は様々のようだ。 

 

 いろいろな神社仏閣を廻って思うことは、規模の大小、受付システムの違いなど様々で、私はこじんまりとして静かで素朴な場所が好きだということ。個人的に賑やかすぎる(騒々しい)ところは苦手。規模が小さいと家族的で、ときに人情味がある御対応をしていただけるのが嬉しい。

 霊感も能力もない私としては神仏と会話はできない。結局、人、神社やお寺の方と話すことになるのだから。

 

 

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香りの記憶と20年前の定宿

 大学生から社会人になったころ(20代前半)、シンガポールに幾度か一人旅したときに定宿とした安宿(ゲストハウス)があった。確か「ニュー・サンディ・プレイス」といって、ニュートンサーカス駅から歩いてすぐ近くのところ。

 他のアジアの安宿を利用したことのある私からすれば、ずいぶん清潔で良い場所だった。トイレバスは共同だったが設備云々というより、主人のサンディが親切で気さくな方だった。サンディは1階の玄関と受付と談話室が一体になっているところに座っていて、ゲストの旅の相談に乗ってくれたり雑談をしていた。サンディは華僑で日本の漢字もなんとなく理解できたので筆談もした。あまり美味しくないが生ぬるいウーロン茶が飲み放題で常備され、テーブルの上のフルーツも好きな時に食べてよかった。その1階にはサンディの家族(妻と2人の子)も出入りしていて、家族と話すときは中国語だったと思う。

 サンディは、だいたい毎晩、様々な国から来ている宿のゲストを連れて、ホーカーズやオチャードロードのバーにご飯を食べに行った。私も何度か相伴し、オランダ人やらフィンランド人と食事をした。

 

 何度か宿を利用していたので、すっかり顔と名前を覚えられ、空港に到着して空港の公衆電話(当時スマホなどなかった)から部屋は空いているか聞いたところ、なぜか免税店でシーバスを買ってきてくれと頼まれ、買っていったこともあったし、ギリシャへ行く途中、シンガポールでのトランジットの時間に、一旦、シンガポールに入国手続してサンディに会いに行った。笑顔で迎えてくれたが、私は飛行機の時間があり、すぐに空港に戻って出国手続をし、ギリシャへ向かった。そんなこともあった。

 サンディが笑顔でいつも私に言っていた言葉がある。

 Donot worry. every thing is ok.(大丈夫。何も心配はいらない)

 東南アジア人独特の楽観主義だったのだろうが、今思えば奥深い哲学的なものを感じる。

 

 先日、近所を歩いているときに、アジアの街の匂いがした。おそらく東南アジア人か中国人が住んでいて、その調味料が発する香だと思う。外国の独特の香りは、その国の人が使うものに依るもので、もちろんその土地自体が発する香りではない。アジアの調味料は香りが強いので、日本の街でもその香りが漂えば、アジアのどこかの雰囲気を醸し出す。香りが演出するイメージは強い。

 そんな香りを嗅いで、シンガポールの宿のことを思いだした。宿のことをウエブで検索してもヒットしない。

 当時、駅前に大きな空地があって、その草むらの中を歩いて宿にアクセスした。20年以上前なので、その空地も開発されて高層マンションでも建っているだろうし、このご時世でウエブ検索して何も出てこないということは、おそらく宿は無くなったのだろう。と思いきや、グーグルで衛星写真を見ると、相変わらず木々や草むらの緑が広がっていた。

喫煙所の聖者

 通勤途中に、いつも立ち寄る喫煙所がある。

 だいたい同じ時刻に着くので、吸っているメンバーもだいたい同じ。もちろん、知らない方たちだが、顔だけは馴染みになる。

 その中で聖者のような方がいる。

 喫煙所によく見られる悪い現象として、空になった飲料缶の放置だ。一服しながら缶コーヒーを飲んで、そのまま喫煙所に置く(捨てる)輩がいる。その喫煙所にも、いくつか空き缶が放置されていることがある。

 その聖者は、タバコを吸い終わるといくつか空き缶を拾っていく。他人の捨てたゴミを拾って、適切な場所に捨てているのだ。おそらく愛煙者として喫煙所を綺麗に使いたい、ゴミがたまることで喫煙所が廃止されるのを防ぎたい、喫煙者の良心と矜持によるものか、いずれにしても、余裕のない朝の通勤時に、なかなかできない行為である。

 

 今日は、その聖者の、さらなる聖者ぶりを目の当たりにした。

 聖者が一服しながらカップ式のカフェオレか何かを飲んでいた。その微かな甘い香りに誘われたのだろうか、大きなアブのような虫(とにかく害のありそうなヤバそうな虫)がカップの側面に止まった。最初スズメバチかと思ったほど、大きなアブのような虫である。ふつうならば驚き狼狽してしまうだろうが、さすがは聖者だ。そのアブのような虫を認識しながらも、まったく動じずにカップの飲料を飲んでいる。虫と顔が接近するのにだ。聖者は、静かに息を吹きかけて虫を飛ばそうとするものの、虫は飛んで行かない。私は、聖者に気を使って、見て見ぬふりをしていたが、聖者の動きは、あくまでゆったり、動じずで、紅葉した木の葉が落ちてきたかくらいの雰囲気である。

 かくして、聖者は、ゴミである空き缶2つとアブのような虫がとまったカップを持ったまま、駅へ向かってゆっくり歩いて行った。こういう方もいるのだ。

 今度、機会があったら、その聖者に話しかけてみよう。