僕らは奇跡でできている
要介護5の父の状態を見て感じたこと。
それは、自力で水を飲めることは奇跡だということ。
水を飲むにしても、口に水を含み、正常に胃に飲み込むのにさまざまな筋肉が調和し一連が無意識に動く。これは奇跡である。
同じく、自力で立てることは、奇跡だ。
立って、行きたい場所に歩けることは、奇跡だ。
食べたいものを自力でおいしく食べられることは、奇跡だ。
お酒を飲めることは、すごい奇跡といえる。
自分で行きたいときにトイレに行き、すっきり排泄できることは、この上ない奇跡と言ってよい。
同様にヒゲを剃り、頭を洗えることは、奇跡だ。
自分で服を選び、着られることは奇跡的な行為。
ボールを掴んで投げられるならば、それは奇跡だ。
床に落ちているちょっとしたゴミを拾うことも奇跡的な所作に他ならない。
10分間の運動は誰でもできるだろうと思われるが、これはとんでもない奇跡だ。
ちょっとしたハイキングでも半日のサイクリングであっても、これはとんでもない奇跡の上に成り立っている。
寒い冬の日々、暑い夏の日々をやり過ごすことができるのも、すごい奇跡だ。
自由に本を読めること、テレビを見られること、これも奇跡的なことだ。
満足しているか否かは別にしても、仕事を持ち、働いていることは、とほうもない奇跡だ。
何年も続けている習慣があることも奇跡だ。
何かに感動できることは、そこに至る様々な奇跡の重なりがあってこそで、実に稀な奇跡的な出来事だ。
誰かと出会い、人とのつながりができることは、天文学的な奇跡である。
誰かとケンカできることも、実は奇跡的な現象だ。
日々いつでもどこでも、奇跡に囲まれ、奇跡の積み重ねの中で生きている。
当たり前のように感じても、実は奇跡だということ。
ただ生きることであっても、すごい奇跡の連続であって、つまり、僕らは奇跡でできている。