わたしの、ものさし

私の見たこと、聴いたこと、感じたこと、を書いています

お寺というビジネス

 お盆(お盆休み)の時期ですね。

 私の家は某寺にお墓があるのですが、その寺が好きになれません、というか嫌いです。基本的に神社仏閣は、場として好きなのですが、その寺は宗教施設特有の崇高さとか清らかさが感じられず、むしろビジネスっぽさがあるからです。

 最近はどこの寺も程度の差はあれ、そうかもしれません。弟子のうち一番修行が進み、ふさわしい方が住職になるのではなく世襲で「お寺家業」です。 ゆえに妻帯し、男が生まれれば、めでたく跡継ぎ誕生です。

 

 どんな宗教でも、時代とともに本来の教義は形骸化し、組織の維持管理、経営の修行が主になります。その実情と、お寺の掲げる仏の教えが矛盾だらけの突っ込みどころ満載で残念すぎます。

 いくらでもあるのですが、いくつか書きます。辛辣に書きますが、それでも、今のお寺やお墓はあっても良いです。すべて無くしてしまえということではありません。真に信仰している方、必要とされる方には大事なものです。以下はあくまで私見です。

 

・そもそも、今のような庶民がどこかの寺のお墓を持つという檀家制度は、江戸幕府の庶民統治の仕組みである寺請制度に始まったものに過ぎない。庶民の統治の流れであって、仏教本来の教えでもなんでもありません。300年経てば立派な常識、既成概念になってしまうのです。後付けの既得権でも。

 

・「先祖供養」や「亡くなった方の冥福を祈る」という、一見誰も否定しづらい観念がお寺運営を支えています。故人の行く末という遺族の不安が原動力ならば、これほど絶妙なビジネスモデルはありませんし、そこが私は嫌に見えるのです。

 

・百歩譲って、葬儀や法事が「あの世」にも意味があり、死者の本当の供養になるならば、僧は遺族の申し込みがなくても、慈悲深い仏弟子としてやるはずですが、申し込み(お布施(報酬))がないとやりません。申し込みと支払がないとしないのはビジネスです。そこで、宗教法人として税が優遇されているのも釈然としません。

 

・さらにがっかりなのは、このような仏教界に対し、異論を唱える僧が出てこないことです。業界の事情もあるのでしょう。しかし、僧は業界ではなく仏に帰依しているはずです。真にロックな仏教僧は出てこないのか。その点、ルターとかカルビンは偉い。

 

・語弊はありますが、信長の比叡山焼き討ちの理由の一つは、以上のようなものだと推測します。さらに昔は仏教は政治勢力でもありました。昔から世俗にどっぷりつかっていたのです。

 

 ということで、私は戒名、葬儀、墓、法事を一切不要とします。

 おそらく、10年後20年後にはこういう方が増えていくと思います。それは、延々に増え続ける墓という不合理さ、少子化にともなう経済的精神的負担、亡くなる前の我々の価値観の変化などによってです。今でも散骨が増えてきてますし。

 

 葬儀や戒名や墓は、死者の供養というよりは、実は遺族のためなのです。もっと言えば、遺族の満足のためです。やらないと謎の罪悪感があるからです。

 もちろん故人を偲び、追悼することは素晴らしいことです。しかし、葬儀や法事である必要はなく、人それぞれ自由な形で心から行えば良いだけです。

 

 いずれにしても安心してください。どのようになっても、阿弥陀様がどんな人でも無条件に一切救うと約束されています。