嫌悪感の奥に見える、自分の望む姿
いろいろな感情の中で、瞬間的にムカッ、イラっとするような嫌悪感や怒りが湧き上がる場合は、こう考えてみると面白い。
その感情が湧く対象は、実は自分が密かに(潜在的に)望んでいるもの、かもしれないと。
たとえば、
・混雑した駅構内で歩きスマホのダラダラ歩きのヤツはむかつく。
・二日酔いが理由で遅刻するヤツはだらしないと思う。
・担当する仕事をいい加減にやってヘラヘラしている。
これらの事例を簡単にいえば「無神経」、「だらしなさ」、「無責任」になるが、実は、実は自分もそうありたいと思っている可能性がある。
その心理は、自分も本当はそうしたいのだけど「頑張って」ちゃんとして良い人賭してふるまっているのに、なぜ、あいつは堂々とやっているんだ、ムカつく~というもの。
いやいや、そんな無神経になんてなりたくない!と思うかもしれない。
けど、記憶になくても、親や先輩などに「他人に気を配り、きちんとしなさい」と厳しく言われた経験があって、今の「ちゃんとした」自分がいるのかもしれない。本当は、ダラダラのんびりしたいのだけど。
自由に休暇を取る人がムカつく場合、自分も実は自由に休暇を取りたいのだ。
非論理的な理屈で行動する人がムカつく場合、自分も理論武装に疲れていて、理屈抜きに直感で動きたいと思っているかもしれない。
自分の本心に反した、このような義務感(普段はそれが自分の本心と思い込んでいる)などが自分の判断基準になっている場合、その基準から外れるもの(実は自分が望むもの)に嫌悪感を抱く。
ゆえに、他人に対し嫌悪感が多い人や、正論を頑なに主張する人ほど、実はアウトロー志望の人なんだろうな、と私は見ている。
果たして、混雑時の歩きスマホ、私はやりたいのだろうか(笑)
もっと無神経でもいいかなとは思うけど。
嫌悪感があるとき、自分が望む姿を見ることができるというのが私の仮説。(もちろん法令違反や残酷残忍なことは別として)
人は、本当の自分を知るのが怖い。本当の自分は自由すぎて、エゴイストで、腹黒く、いわゆる悪い人かもしれないのだ。怖いから、常識という衣で身を覆い、自分が世間から外れていないと必死に正当化する。