『嫌われる勇気』 実践して初めて「読んだ」といえる
「嫌われる勇気」がベストセラーになったが実践した人はどのくらいいるのだろう。この手の本は、一部でも実践してみて初めてその本を「読んだ」ことになると思います。
さて、この本に限らず「嫌なものはイヤだとし、他人の評価で生きない、自分軸で生きる、そうすることで楽になれるし、幸せになる」という内容の本はたくさんあります。
個人的な結論から言えば、これは概ね正しい。
実践してみてそう思います。もっともまだ短期的な状況であって、今後の長期的な状況は不明ですけど。
◆実践。「嫌な事」を「断る」。
これだけ。
いたってシンプルで簡単だけど、実際の場面に直面すると、そうではない。
仕事での理不尽な依頼、プロジェクトの担当者決め、上司の誘い、プライベートで家族、親とのアレコレ。これらは嫌だなと思っても、断りづらいし、ふつうは断らない。
なぜなら、
・できないヤツになってしまう
・職場の調和を乱すヤツとされる
・評価が下がり、出世できない
・付き合いが悪いと思われる
・常識がない、ひどいヤツと思われる
つまり、嫌われることに対する「恐怖」があるから。
あるいは世間とか常識に反するイケない自分になる「恐怖」があるから。
で思うに、イヤなことを「我慢」してやって、それで得られる成功だとか報酬だとか、人間関係って、真の「成功」や「報酬」、「人間関係」では無い。
それって、我慢や辛抱の見返りで、恐怖による動機の成果。
それらの成功や報酬が大きければ大きいほど、むしろ不幸ではないかと思うのです。
そうして成功などをした人は「自分はこうだったから、おまえもそうしろ」と後進に押し付けるんです。我慢の連鎖が続く…
真の成功とか報酬って、幸福感に満たされるもの。やりたいこと、好きな事、楽しいことをする中で発生するもの、そう思います。
いやいや、そんな世間は甘くないよ、自由気ままに皆が振舞ったら社会が成立しないじゃん!というつっこみがありそうだが、前述の信念のもと、とにかく嫌な事を断ると、どうなるのか実験してみた。
もちろん、これには「覚悟だけ」が必要です。
・何かの損が出ても良い
→得るものがあるなら、何かを失っても是とする
・嫌われてもいいし、世間的な評価が下がっても良い
→周囲ではなく自分の思い優先させるのだから当たり前
という。
◆で、思い切って拒否した。
それなりに勇気は入りました。
俺って冷たい人だな…とか、自分の中で色々な思いが湧き上がってくるわけです。自己嫌悪。自責の念。でもこれって、自作自演しているだけなんですけどね。別の言い方をすれば、「嫌われない努力」の思考の残骸。
でも、思い切って「No!」と言えたこと、言った瞬間、すごい解放感がありましたね。すごーく楽というか、どう断ろうかとか、どう依頼に応えようかとか、今まで考えていたのってなんだったのだろうと。
◆嫌なことを「No!」とした結果、意外な展開に。
・案外すんなりと相手は受け入れてくれたのです。
しかも次回からはダメなら断ってもいいから、ともいわれるし、無理矢理なお願いが少なくなってきた。自分が思うほど、相手は不快ではないのだと思います。
ここで相手がどう思うかは考慮しなくていい。それは相手の受け取り方の問題であって、どうにかできるのはその人だけ。また、どうにかしようとすることは、他人の評価で生きることになるので、逆戻り。
・今の状態がすごく楽。
自分を欺き、自分を殺してまでやるべきことって、ほとんど無いのだと思います。
もしそう思うなら、責任感が強いというのもある一方で、傲慢でもあるんです。自分じゃないと対応できないという傲慢さ。
でも、自分が我慢してまでやらなくても大丈夫。他の誰かが喜んでやってくれるように世の中は出来ている。そう実感しました。
・無神経は悪ではない
いますよね、無神経な人って。ズバスバと進めてしまう。言い方が図々しい。他人に仕事を平気で任せてしまう・・・
で、「この人は無神経だ!」って感じる時は、実は自分もそうありたいと願っていることの裏返し。だからムカッとくるんです。自分は我慢しているのに、アイツは簡単にぬけぬけとやりやがってと。(実は羨ましいのです)
無神経な人って、周囲を気にしてないんです。周囲がどう感じようが、自分は平穏なんです。だから彼の人生は、彼なりに幸せなんです。彼なりであっても幸せであれば、それは幸せなんですよね。
素直が一番です。自分に対して素直。いいと思います。