わたしの、ものさし

私の見たこと、聴いたこと、感じたこと、を書いています

単機能の美しさ

 マルチタスクという言葉がある。同時に複数の仕事をやることだ。

 1つの仕事でも相手や会議での反応や方針待ちだったりで、手が空く時間が必ずあり、その間は別の仕事をするというもので、いろいろと複雑になっている現在では誰もが経験しているはず。

 私もいろいろなタフクは流れ込んできて、マルチタスク状態にならざるを得ない。

 だが、どうにも手が回らず、結局、仕事がもれたり、雑になってしまう。マルチタスクで一度にたくさんのプロジェクトを抱えてます的な人は、仕事ができる、頭がキレる、かっこいい、というイメージが一般にある。しかし、私個人としては、おいおいホントかなと。

 先も書いたように、あれもこれものマルチタスクでは、手が行き届かず仕事が漏れたり、完成度が低くなる。人の能力にもよるが、多すぎる案件を同時に処理していくのは無理がある。

 家電製品でもそうだが、多機能であればあるほど、製品としての魅力が分からなくなるし、機能の一つがすぐに故障したりする。一方で単機能の製品は丈夫でその性能に特化しているので、その1つの機能は信頼できる傾向になる。また、マルチタレントで活躍している人も、きっと数十年後、そんな人もいたけど、結局、何をしていた人だっけ?となるのではないか。

 マルチタスクよりも、できる範囲の仕事を選択し、そこに集中する。いろいろな案件を同時にさばくことはカッコいいかもしれないけど、個々のパフォーマンスは悪いのではないか。

 多機能よりも単機能の方が、その機能として魅力的だ。単機能の美しさ。忙しすぎる最近、そんなことを感じている。

マンスリーからウィークリーへ

 日々、予定が多い。打ち合わせ、会議が多い。

 今まで手帳はマンスリー(デルフォニクス)を使っていた。見開きで1か月を俯瞰でき見やすいし、そもそも1日に書き込むべき予定が1,2つ程度で間に合っていたから。

 でも4月以降は違う。1日に4,5つの打ち合わせが入り、さまざまなメモを書き込む必要が出てきた。

 そこでマンスリー手帳では物理的に難しくなり、無印のマンスリー&ウィークリー手帳を4月も半ばに購入することになった(旬が過ぎているので30%オフ)。

 ウィークリーだと枚数が増え、手帳の重さも増すので敬遠していたが、必要に迫られた道具なのでやむを得ない。スケジューリングとメモを十分書き込める。

 慣れだと思うが、上司が凄い。同時にいくつもの案件を抱え、スケジューリングする。みっしり予定が埋まっており、これでいつ休むのだろうと思う。

 上司はウエブで管理するので、私も把握することができるから助かる。動くを事前の予測できるからだ。

 

 予定がたくさんあると満足する人がいるという。

 私は予定だらけを嫌うので、今はやや苦しい。予定が多いとじっくり考える時間が少なくなり、瞬発力で対応となる。それが結構消耗する。(が、慣れとは怖いもので、この1か月で馴染んできた。)

 予定だらけだと余白がなく、何かが舞い込んでも受け入れがたくなる。

 余白と隙間。無駄に思える時間とか空間って大事だ。

 マンスリーからウィークリー手帳への移行は、私の精神的なリズムへも影響が出てくるだろう。

 

 

 

 

ニオイ、特に人工的でケミカルなものは、暴力ですらあること

 同僚の加齢臭が困る。

 席が近いので、気になりだす気になって仕方がないし、職場に彼といる間は常にしんどい。独特の刺激臭が鼻につく。気のせいか、目や鼻もスースーと沁みる。おかげで花粉症の鼻づまりも解消されている。

 本人の意図ではないので仕方がないが、身だしなみやマナーとしてはいかがなものか。そもそも彼の家族は、何も言わないのだろうか。

 

 臭いは、その「場」の空気を文字通り支配するので、他人に与える影響は大きい。

 見たくないものは見なければいいが、常に呼吸するから臭いはどうしようもない。

 ふと、私は大丈夫だろうかと心配になり息子たちに確認したら、加齢臭は無いようだ。

 

 臭いといえば、化学的な香りはすべて苦手だ。

 洗剤やせっけん、シャンプーなどすべて無香料、天然素材のものを使っているので、その状態になれると、世間でよい香りとされる柔軟剤の臭いも、私にとっては「ひどい臭い」に過ぎない。とてもケミカルで人工的な臭い。

 若いころ(というか好んで使っていたころ)は、アメリカの洗剤タイドがいい香りと思っていたが、今はもう無理。

 洗濯で使った日には、家じゅうに臭いが漂い、気分が悪くなってしまった。

 化学的なよい香りとされるものは、ある種、麻痺しているか、中毒になっているのだ。たぶん3か月ほど使わないと、その臭いのひどさがきっとわかるはずだ。

 

 一方、香りがきつくても、天然系のものは大丈夫。たとえばアロマオイルなどの精油や天然素材のお香、サンタ・マリア・ノヴェッラのポプリは大好き。

 体は素直で正直。自然なものは好き嫌いはあっても、具合が悪くはならない。

 

 

サンタマリアノヴェッラ ポプリ 詰め替え用 100g Santa Maria Novella

サンタマリアノヴェッラ ポプリ 詰め替え用 100g Santa Maria Novella

 

 

目には目を歯には歯を

 失ったときに、当然だと思っていたことの有り難さを痛感する。

 ゆえに、今現在、有り難いことだらけに囲まれているのだと思う。

 

 生まれつき、私は目と歯が良かった。視力は2.0をずっとキープし、100m先の人の顔を認識できたし、何もかもクリアに見えた。視力の悪い人が見る世界を想すらできなかった。大きな部屋の隅々までハッキリとみることができた。

 しかし、40を半ばまできた最近、老眼がでてきて、至近距離がボヤけるようになった。困るのは本を読むときだ。30cm以上話さないと文字がボヤける。通勤電車で本が読みづらいし、仕事でも老眼鏡は必需品となった。

 若いころ、眼鏡に憧れた。伊達眼鏡すら買ったことがあるが、裸眼でくっきりと世界を見ていた。それが当然だと思っていたが、今、その有り難さがしみじみわかる。

 眼鏡がないと仕事や読書がしづらいというのは、つまり日常的に身体機能をサポートする道具に依存しないと生活できない状況にあることだ。小さいころからそういう状況とは違い、急にそうなったことのもどかしさと息苦しさは大きい。

 身体機能的に何かに依存しないといけないというのは、自由ではない。でかけるときに持ち物が増える。

 何かがなければ不都合ならば、それは不自由な状態だ。

 何もなくても大丈夫、というのが本当の自由だ。

 

 歯は相変わらず丈夫で、虫歯になったことがない。

 虫歯でしばしば通院する周囲の人を見ると、これは有り難いギフトだ。

 ただ、親不知周辺が怪しくなってきた。歯科医からは親不知を抜くことを勧められているが、自然にしっかりある歯を抜くのはしんどいため様子見を継続している。丁寧に磨こう。奥歯をグリグリと抜くのは嫌だ。。。

貝原益軒の「養生訓」は、現代でも通用する健康指南書

 日本史の教科書に登場する貝原益軒の「養生訓」を、ふとしたきっかけで読んでみようと思いたち、図書館で借りた。

 

すらすら読める養生訓

すらすら読める養生訓

 

 

「すらすら読める養生訓」は、本当にすらすら読めた。

 感想を簡単に言えば、健康への気遣いとか健康のコツは、江戸の昔から今と変わらないし、現代でも十分通じるノウハウ。もっといえば人生哲学が書かれている。

 まず冒頭から目からうろこだった。

 「老い」とは江戸時代では現代ほど嫌われていなかった。むしろ尊厳の対象であり、幕府や村の役職も、「大老」、「老中」、「年寄」とされている。「老」は年齢的に高齢という意味ではない。「知恵のある有能な」という意味合いが、江戸時代の「老」にはあった。老いを良い意味で捉えていたのが前提。

 ゆえに人生の前半ではなく後半に本当の幸せや楽しみがある。そのために健康を維持し長生きをしよう、そこで「養生」が若いころから大事だと繋がる。

 興味深いのは東洋的な哲学を軸にして、当時入り込んできた目新しい西洋医学をやや斜に構えて見ているスタンス。特に薬は使うな、というくだり。

 また、養生というからには、まず食事や肉体管理から始まるかと思いきや、最初は心の養生から始まるあたりに感心してしまう。そういう点でも現代の健康書として十分に通用する。

 病気は自然に治るものが多い。死病は薬を用いても治らない。薬の多用はかえって悪化をまねくことが多い。この辺は、医療過剰?の現代では顧みる必要があるかもしれない。

自分の体の治癒力を高めることを常として、「静養して待つこと」が病気への対処として重要とする。そもそも病気にならないように気を養うことがもっとも大事。そんなことが養生訓に述べられてる。

 養生訓に出てくるキーワード「気をめぐらす」「元気を養う」「呼吸を整える」などは、ヨガにも通じる。具体的な養生の道は、多くの人に「養生訓」で読んでいただきたいし、読む価値があると思う。