わたしの、ものさし

私の見たこと、聴いたこと、感じたこと、を書いています

酉年の初詣

 今週のお題「2017年にやりたいこと」

 

 神社への初詣は、2日に近所の神社と贔屓にしている神社をはしごした。お寺へは、七草粥を食べて深川不動へ息子と一緒に行った。深川不動は、厄年のとき厄払いをお願いしたお寺で、子どもを連れて出かけるには門前仲町が丁度よいくらいの気持ちだった。考えてみると、今年、酉年の守護は不動明王だから、初詣に最適なお寺。

 

 深川不動は、成田山新勝寺東京別院。正月三が日を過ぎても門前には屋台がならび、参詣する人の行列が絶えない。新年になってしばらくの期間は護摩焚きが1時間おきにあって、待たずに参列することができた。

 護摩焚きでの太鼓の力強い音がご利益ありそうだ。平安時代比叡山の僧兵を思わせる屈強そうな僧が太鼓をたたく。バチが手から滑って客席に飛んだら大変だろうなと余計な心配をしているうちは、我ながら邪念が多い。お願いごとは、自分以外のこと、子どもたちの安全と健康とか、仕事で担当している部署の発展などをもろもろ祈った。

 太鼓の振動には、悪いものを弾き飛ばすような勢いがあって、護摩焚き後は心身ともにすっきりした。小学生の子どもも、場の空気を感じたのか、神妙な顔で座っていた。もっとも、彼のお目当てはお詣り後の昼ごはん。

 

「初詣」は、年間に何度かお詣りするから「初」になる。初詣が、その年、最初で最後のお詣りにならないように、毎月は行けないにしても、せめて季節ごとに太鼓を聞きに行こう。

私の、カジノ法案

 カジノ法案の成立が拙速だとする意見の理由として、「ギャンブル依存への対策不足」の懸念がある。

 でも、すでに現在の環境で「ギャンブル依存」が存在しているのだから、理由としては賞味期限切れの感じがする。すでにパチスロ、競馬などでギャンブル依存になる環境にあるのだから、対策が必要ならば今現在からするのが筋だし、いまあるギャンブルに対してもどうにかするべく活動するのが筋。

 カジノができればギャンブル依存が「拡大すること」への懸念だとしても、カジノがあろうがなかろうがギャンブル依存には変わりなく、50歩100歩のように思える。

 

 そこで私の考えでは、カジノを作るのならば富裕層を対象とすればいい。入場料を高く設定して、冷やかしの一般人は入れない。そういう差別化をする。そして100万、200万円失っても平気な富裕層から売上げを取ればいい。きっと社交場での見栄比べで、それなりに注ぎ込んでくれるだろう。

 そしてその収益でギャンブル依存症対策など公益事業の資金とする、とすればいいではないか。詭弁のような感じもするが、カジノと依存症対策の両立はできる。私がカジノ法案の提案者ならば、そのような仕組みにして国会で説明をする。

 

 ちなみに、私はギャンブルには全く興味がなく、魅力を感じない。パチスロの仕組みを知らないし、競馬や麻雀のやり方もしれない。

 人は何かしらに依存する。酒、タバコをしない人でも、スイーツ(砂糖という薬物)に依存してしまうし、ギャンブルもその一つならば止められない気がする。

 

深夜の制約の果て

 素人のカラオケ王座決定戦の類の番組が面白くて見てしまう。プロアマ問わず、上手な歌を聴くことが好きだ。

 数か月前になるが「歌姫決定戦」という番組は、意外な展開になって、面白いというよりも笑えた。

 

 確か夜の11時過ぎまでの生番組だった。決勝まで進んだのが女子中学生だったため、本人は生放送的に出られず、録画映像で決勝に挑んだ。

どういう法的な制約があるのか詳しくないが、このような場合、18歳未満でもリアルタイムで出演すれば良いと思う。本人と保護者の自由な意思のもとに、深夜に出演しても良いではないか。

 おかしな展開となったのは、中学生の代わりに、その母親が司会者の横に立ち、司会者への受け答えをしていた。

一方の対戦者は18歳以上なので、当然本人が立つ。中高年の母親と若い対戦者が並ぶその映像。もちろん母親は当事者でないし自分で歌って勝ち進んできたのでもないで、何となく所在無げな感じがテレビの映像越しに伝わってくる。

 最終的にその中学生が優勝してしまい、代わりに母親に花吹雪が舞い、優勝者として祝福される展開になった。ズームアップされる女子中学生の母親。

 

 

 個人的には、もう一方(18歳以上、確か22歳くらい)の人の方が、歌は上手かったと思う。

 

 

 

 

本当のリア充

 私の身の周りで感じることは、本当に充実していたり、心身ともに豊かな人ほどSNSに出てこない。つまりツイッターやFB、インスタに日常を挙げたりしない。ウエブ上で「リア充」アピール云々とあるようだが、そういうことの発想すらないようだ。

 このことは、少し考えてみればよくわかる理屈だと思う。幸せや充実さを外にアピールするということは、穿った見方をすれば、自分の人生の前提が不幸で退屈でつまらないものであって、その反動として自分の幸運ぶりを誰かに報告し、自分は大丈夫なのだと納得させようとしているのではないか。

 このことは泰然自若とした身の回りのリア充な方々を観察するとよくわかる。彼らは自分の幸運や充実さを味わい、豊かさを地味に静かに堪能しながら、リアルな人間関係のなかでのびのびといている。その中で、不特定多数の人たちに自分は楽しいとアピールする必要はない。誰かに自分の楽しさを伝えることよりも、純粋にもっと自分の楽しみを追及することに熱中する。

 

空の旅のルーティーン その3

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旅の宿、特にホテルの部屋は乾燥しがち。

不快な湿度とカビを抑えるためか全館空調と換気システムが動いているためだろうか。

乾燥してると喉をやられる。そこで私は、乾燥しているホテルの部屋では、バスタブに熱い湯を張り、浴室のドアを開ける。湯船からの熱と湿気が部屋に広がり、暖房と加湿になるからだ。

 

冬の北海道のホテルの部屋でこれをやると、窓が結露して水滴がすごい。北海道くらいになると、室内と外との温度差が有り過ぎて、ペアガラスではなく二重窓でないとダメなんだろう。

 

北海道の粉雪でも人が踏み固めるとアイスバーンになる。地元の人たちは余裕でアイスバーンの上を歩き、たまに高校生らしき若い人が走っている。慣れなのだろうか、彼らはまったく滑らない。