わたしの、ものさし

私の見たこと、聴いたこと、感じたこと、を書いています

アレルギー検査

 先日、ふとしたきっかけからアレルギーの検査をやってみた。アレルギーには即時型と遅延型がある。即時型とは、摂取してすぐに反応のあるもの。普段見聞きするのが即時型で、ソバとか卵とか牛乳など。一方、遅延型というのもあって、摂取しても、その場で蕁麻疹などの分かりやすいアレルギー反応はなくても、地味に体調不良を及ぼすもの。常に体調が悪いという人には、この遅延型アレルギーが影響しているかもしれない。遅延型アレルギー検査は、まだ認知度が低く保険適用されておらず、検査できる医療機関も少ない。

 さて、今回、私がやったのは即時型の検査。結果、検査するまでもなくわかっていたのは花粉だが、その種類としてはスギ、ヒノキ、その他の花粉にアレルギー反応が出ていた。あとはカビ、ハウスダスト、犬や猫のフケ、蛾の粉。それと若干反応があったのは、小麦だった。

 科学的な事実をつきつけられると納得するしかないが、食べ物にはほとんどアレルギーが無かったのでほっとした。

それにしても花粉か。スギ、ヒノキの時期としては2月から4月としても、1年のうちの4分の1が鬱陶しい期間ということになる。マスクとか点鼻薬などの薬がないと困る状態に不自由さを感じる。

信じる者は救われるって、正しい。

 小学6年の次男が、どうやらサンタクロースをまだ信じているようだ。親として今まで「サンタはいる」としていたため、「サンタを信じているの?」とハッキリと確認することは自己矛盾が生じるためできないが、彼のいろいろな言動からその可能性が見られ、信じていることが推察された。え、マジか。。

 それが本当ならば、なんて純粋なんだろうとやや不安に覚えるし、演技ならば、なんて計算高いしたたかなヤツだとやはり不安を覚えてしまう。。。長男は、とっくにサンタの存在を知っているだろうが、その点について、次男に対してあえて何も指摘しない。男兄弟同士、クールといえばクールだが、そもそも兄弟であまり口をきかず、お互い関心があっても無関心を装う年頃だ。

 いずれにしても、次男がサンタを信じていることにわずかな可能性がある限り、親としてはサンタがいるように振る舞うことになる。

 さりげなくサンタにお願いするものを聞き(カラーが選択できる品物の場合は、色まで確認する必要がある)、クリスマスイブの夜に寝静まった頃合いに、枕元へ忍び足。サンタのための置かれたミルクとクッキーを引き上げ、代わりにプレゼントを置く。これがいつも妙に緊張するのだ。大きな音をたてて起こしてしまっては台無しになる。また眠くても、このミッションを終えるまでは寝てはいけないという漠然とした焦燥感。そんなことを考えていたら、枕元に置くのはなかなか繊細な作業なので、家のどこかにプレゼントを置くこととし、そこへ辿り着くナゾナゾのメモを枕元に置くのでも面白いと、今さらながらに思った。そう、ダン・ブラウン著「ダビンチコード」の中に出てくるルーブル美術館長のおじいさんとその孫の話にあるように。さすがにクリスマスのサンタは小学6年までだろうから、今年2018年で我が家のサンタ生活は終わりになり、ナゾナゾ宝探しアイデアはアイデアのままで終わりそうだ。

 

 昨晩、世界でサンタ役をした親は何人いたのだろう。

 個人的にクリスマスに特段の思い入れは無いし、世間は何をそんなに浮き足立っているのかと冷ややかに思うが、このある意味で子供をめぐる攻防は面白い。

 

一言の重み

 端的に言えば、人は、相手が何を考えているのか分からない状態が怖いのだと思う。

 

 職場に苦手な人がいて、その人はとにかく無口で、余計なことを一切しゃべらない。職場では、余計なことはしゃばらないことは悪いことではないのだけど、以前は挨拶の声も小さくて、挨拶ができないのかと思ったし、仕事上の会話も声が小さいうえに言葉足らずだったりするから、正直イライラしてしまうところがある。

 そんな感じなので、当然、世間話や個人的なことの話を自分からすることは一切ない。職場で個人的な話を披露する義務はないし、世間話をしなければいけないこともない。それはそうなのだけど、無駄話は人と人が集う場における不条理な潤滑剤になっているのは、否定できない事実である。

 そんな同僚を、とにかく苦手だと思っているが、これって「その人が何を考えているのかが分からない恐怖」が根底にあって、良く思えないのだと気付いた。

 その人の考えていることの本当のところは、会話をしたって分かりはしないのだろうけど、世間話なで、なんとなくその人を分った気になれることって大事なのだ。

 

 そんな同僚が、ある日、自分の言いたいことで言いづらいことを一言で発言したことがあった。その一言でもって、ああ、この同僚も自分を同じような感覚を持っているのか、と確認が一瞬で出来て、苦手意識が薄らぎ、距離が縮まった気がした。

 たった一言が、状況を大きく変えてしまうことってあるのだな。

香りのマナー

 たとえば、「L'OCCITANE(ロクシタン)」のハンドクリーム(ローズ)の香りは嫌いじゃない。だけど、他の人がつけていて同じ部屋にいると、匂いに参ってしまう。香りがきつすぎるのだ。香水も然り。

 通りすがりの人から仄かに香る程度でちょうど良い。ずっと香っていると、いわゆる生理的につらい。スメハラとはこういうことを言うのかと実感した。体温高めの私ならすぐに香りを飛ばせるが、体温低めの女性がつけた日には香りが長持ちで困る。

 匂いの好みは人ぞれぞれだけど、結果的に他人を不快にさせる香りの纏い方は、マナー違反、もっといえば暴力になるのだろう。

 個人的には人工的な香りほど苦手。洗濯洗剤、柔軟剤の香りが人気のようだが、私に言わせれば臭い。安い洗剤ほど臭いのだが、アメリカのダウニーの香りも苦手だ。ずっと嗅いでいると気分が悪くなり頭痛がしてくる。

 自然の匂いである体臭もくさいし気にはなる。男脂臭とか加齢臭とか。でも不思議と人工的な香りよりはダメージが少ない。

 思うに、香りの究極のマナーとかおしゃれとは、未加工の天然の香りなのだと思う。たとえば生け花からの香りとか、新しい畳(干し草)の香り。

おじいちゃんの力

 周防大島町の2歳児行方不明事件でのボランティアのおじいちゃんの救出劇は痛快だった。歳をとっても、その経験とか知恵で活躍できることは、多くの人に勇気と活力を与えてくれたのではないだろうか。

 このおじいちゃんを見ていて、ふと若いころの登山での出来事を思い出した。

 20代後半のころの夏休みで、単独で八ヶ岳縦走に出かけた。確か、麦草峠あたりから入って黒百合ヒュッテに泊まり、翌日は天狗岳、硫黄岳、横岳、赤岳と八ヶ岳主要を縦走し、美濃戸口に降りるプランだった。

 黒百合ヒュッテを発ち、平日のためか登山者があまりおらず、静かな登山道を晴天の下、悠々と一人で歩いた。

 硫黄岳頂上に着いて、休んでいたときだった。ふと自分の履いている登山靴を見ると、ソールが半分くらい剥がれているのに気が付いた。びっくりしたというより呆然としてしまった。あり得ない。某登山用品店で買ったばかりの靴だった。登山でもっとも重要な道具は、靴である。これから八ヶ岳の核心部なのに、これでは縦走の続行は無理だ。それどころか、下山するにも危険ではないか。

 どうしようかと思案していたときに、近くにいた登山者が目にとめてくれた。その方は、60歳を過ぎたご年配のおじさんで、若いころから登山をやっているベテランの風情だった。

 「細引きでしばってソールを固定しよう」と私の手持ちの細引きを使って、上手にワラジを足に縛るような要領でしっかりソールと靴の甲を結んでくれた。細引き使いにも年季が入っているようだ。結びがしっかりと隙がなく、美しい。

 そのおじさんが眩しく、かっこよく見えた。長年の経験と知恵からくる自然な振る舞いが素晴らしい。その後、無事に下山でき、帰宅した。私もそうなりたいと憧れたが、しばらく登山をしていない。

 とにかく、こういうのが良い歳のとり方なんだろう。