読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

わたしの、ものさし

私の見たこと、聴いたこと、感じたこと、を書いています

人事異動後

2階級特進の、でも微妙な出世はしたが、部署が特殊過ぎて、もちろんまだ慣れていない2週目。日々とても疲れている。体重も減った。異動するときの初めはこんなものだと分かっていても、もどかしい。

 

しかし闇である。組織の闇を扱う仕事は、正直しんどい。ただ上司や同僚が優秀で、態度とか考え方が鋭く俯瞰的で、これはとても勉強になる。これらを吸収しつくしたい。

闇の中の光といえる。きっと与えられた機会には、どんなものにも自分にとって意味があるのだから。

 

 

息子たちも進級したが、クラス名簿を見ると唖然とする。

名前が読めないのだ。キラキラネームは少ないが、それでも読めない。

これは「文字変換イライラ問題」が数年のうちにやってくる。

今でさえ平成生まれの若い人たちや、昭和世代でさえ読みづらい、パソコンで変換しづらい名の人はいる。今後はその割合が増える。

正直迷惑なレベル。読めない、変換しづらいイライラ問題は社会的な課題になるだろう。いち早くイライラしているのは幼稚園や小学校の先生だろう。

名前はシンプルで多くの人が読めるものがいい。息子の同級生で「健太」とか「賢治」などの名前を見るとほっとする。

逆の偏見だろうが、そんなシンプルで読みやすい子の親御さんは、きっと良い人なんだと思ってしまう。

 

送別会、涙、花束

4月1日異動につき、部の送別会を開催していただいた。

いろいろなスタッフを加えて、総勢70人くらいだろうか。同じ部署でも、普段顔を合わすことがない人がたくさんいて驚いた。

 

10数人の異動者がいて、それぞれが挨拶の言葉をしゃべるのだが、ことこまかに語る人が多くて異動者挨拶の枠が長い。正直、あなたの異動先の情報なんて知らなくていいし、抱負など個人で抱えておけよと思う。この手の話は、手短に簡単でいいのだ。

私は挨拶を予め考えていたが、いざ皆様の前に立つとすっとんでしまい、ひたすら笑いを取るスピーチをアドリブでいった。目標30秒。すべらずにそこそこ笑いを取れた。

 

私は送別会が嫌い。

だって、やはり別れって寂しい雰囲気だから。退職するわけでもないし、同じ会社の他の部署に行くとはいえ、同じ部屋で同じ水を飲んで、一緒に笑って怒って仕事をしてきた仲間、家族よりもたくさん話をした仲間だから。

特に、主賓、送別される側というのは嫌いだ。

 

70人ほどの人たちとの歓談でいろいろ挨拶、話をしたなかで、直属の部下に泣かれてしまい、困った。

その女性は新規採用で初めての上司が私。泣かれたといっても、苛めたわけではない。お世話になりました。たくさん学びました。さびしいです。もっと一緒に仕事がしたいです、という涙。

私は本来感情的で涙もろい。が、そこはクールに笑顔で応えるしかなかった。どんな理由にせよ、女性を泣かしている図にやや困ったけど、でもとても嬉しかった。

そのほかにも声をかけた数名の女性も、なにかの琴線に触れることを私が言ってしまったのだろうか、泣いてしまい。気まずさと嬉しさの複雑な感じ。。

こういうときに涙を流せるって、素敵なことだと思う。

想定外にも同僚の男も泣いた。

●●さん(私)がいてくれて助かった。どれだけ楽に仕事ができたか、と。

さすがにその同僚の男泣きには、自分も思わず涙ぐんだが耐えた。私が泣く姿をみんなには見せたくない。

でも、同僚の40を過ぎた男の涙も美しいと思った。堂々と人前でも泣けることは素晴らしい。その純粋な感情を開放できることは尊い

 

チームからのメッセージカードは、家に戻って深夜1時に読んだ。

そこで私は初めて泣いた。

 

いつも思うが、異動したあとに、もっとこうすれば、ああすれば良かったというのがある。何度も何度も経験しても、いまだにそうだ。

もっと、周囲の人にできることはあったよな。

それでも、たくさんのメッセージをいただいて、もっと自分の評価を高めよう、自己肯定感を高していいんんだと思った。

 

「●●さんのことは忘れません!また一緒に仕事がしたいです!」と部下の女性陣。

「女はいつもそう言うんだよ!(笑)」と切り返すと、

「ははは!」と笑った。

 

そう、恋愛でもなんでも女はいつだってそういうだ。

自分の後任者が来れば、その人最高!ってなるだろう(笑)ひねくれているのだろうか、私って。

ちょっとさびしいけど、それでいいのだ。

 

みんなありがとう。

 

 

 

 

ニオイ、特に人工的でケミカルなものは、暴力ですらあること

 同僚の加齢臭が困る。

 席が近いので、気になりだす気になって仕方がないし、職場に彼といる間は常にしんどい。独特の刺激臭が鼻につく。気のせいか、目や鼻もスースーと沁みる。おかげで花粉症の鼻づまりも解消されている。

 本人の意図ではないので仕方がないが、身だしなみやマナーとしてはいかがなものか。そもそも彼の家族は、何も言わないのだろうか。

 

 臭いは、その「場」の空気を文字通り支配するので、他人に与える影響は大きい。

 見たくないものは見なければいいが、常に呼吸するから臭いはどうしようもない。

 ふと、私は大丈夫だろうかと心配になり息子たちに確認したら、加齢臭は無いようだ。

 

 臭いといえば、化学的な香りはすべて苦手だ。

 洗剤やせっけん、シャンプーなどすべて無香料、天然素材のものを使っているので、その状態になれると、世間でよい香りとされる柔軟剤の臭いも、私にとっては「ひどい臭い」に過ぎない。とてもケミカルで人工的な臭い。

 若いころ(というか好んで使っていたころ)は、アメリカの洗剤タイドがいい香りと思っていたが、今はもう無理。

 洗濯で使った日には、家じゅうに臭いが漂い、気分が悪くなってしまった。

 化学的なよい香りとされるものは、ある種、麻痺しているか、中毒になっているのだ。たぶん3か月ほど使わないと、その臭いのひどさがきっとわかるはずだ。

 

 一方、香りがきつくても、天然系のものは大丈夫。たとえばアロマオイルなどの精油や天然素材のお香、サンタ・マリア・ノヴェッラのポプリは大好き。

 体は素直で正直。自然なものは好き嫌いはあっても、具合が悪くはならない。

 

 

サンタマリアノヴェッラ ポプリ 詰め替え用 100g Santa Maria Novella

サンタマリアノヴェッラ ポプリ 詰め替え用 100g Santa Maria Novella

 

 

目には目を歯には歯を

 失ったときに、当然だと思っていたことの有り難さを痛感する。

 ゆえに、今現在、有り難いことだらけに囲まれているのだと思う。

 

 生まれつき、私は目と歯が良かった。視力は2.0をずっとキープし、100m先の人の顔を認識できたし、何もかもクリアに見えた。視力の悪い人が見る世界を想すらできなかった。大きな部屋の隅々までハッキリとみることができた。

 しかし、40を半ばまできた最近、老眼がでてきて、至近距離がボヤけるようになった。困るのは本を読むときだ。30cm以上話さないと文字がボヤける。通勤電車で本が読みづらいし、仕事でも老眼鏡は必需品となった。

 若いころ、眼鏡に憧れた。伊達眼鏡すら買ったことがあるが、裸眼でくっきりと世界を見ていた。それが当然だと思っていたが、今、その有り難さがしみじみわかる。

 眼鏡がないと仕事や読書がしづらいというのは、つまり日常的に身体機能をサポートする道具に依存しないと生活できない状況にあることだ。小さいころからそういう状況とは違い、急にそうなったことのもどかしさと息苦しさは大きい。

 身体機能的に何かに依存しないといけないというのは、自由ではない。でかけるときに持ち物が増える。

 何かがなければ不都合ならば、それは不自由な状態だ。

 何もなくても大丈夫、というのが本当の自由だ。

 

 歯は相変わらず丈夫で、虫歯になったことがない。

 虫歯でしばしば通院する周囲の人を見ると、これは有り難いギフトだ。

 ただ、親不知周辺が怪しくなってきた。歯科医からは親不知を抜くことを勧められているが、自然にしっかりある歯を抜くのはしんどいため様子見を継続している。丁寧に磨こう。奥歯をグリグリと抜くのは嫌だ。。。

貝原益軒の「養生訓」は、現代でも通用する健康指南書

 日本史の教科書に登場する貝原益軒の「養生訓」を、ふとしたきっかけで読んでみようと思いたち、図書館で借りた。

 

すらすら読める養生訓

すらすら読める養生訓

 

 

「すらすら読める養生訓」は、本当にすらすら読めた。

 感想を簡単に言えば、健康への気遣いとか健康のコツは、江戸の昔から今と変わらないし、現代でも十分通じるノウハウ。もっといえば人生哲学が書かれている。

 まず冒頭から目からうろこだった。

 「老い」とは江戸時代では現代ほど嫌われていなかった。むしろ尊厳の対象であり、幕府や村の役職も、「大老」、「老中」、「年寄」とされている。「老」は年齢的に高齢という意味ではない。「知恵のある有能な」という意味合いが、江戸時代の「老」にはあった。老いを良い意味で捉えていたのが前提。

 ゆえに人生の前半ではなく後半に本当の幸せや楽しみがある。そのために健康を維持し長生きをしよう、そこで「養生」が若いころから大事だと繋がる。

 興味深いのは東洋的な哲学を軸にして、当時入り込んできた目新しい西洋医学をやや斜に構えて見ているスタンス。特に薬は使うな、というくだり。

 また、養生というからには、まず食事や肉体管理から始まるかと思いきや、最初は心の養生から始まるあたりに感心してしまう。そういう点でも現代の健康書として十分に通用する。

 病気は自然に治るものが多い。死病は薬を用いても治らない。薬の多用はかえって悪化をまねくことが多い。この辺は、医療過剰?の現代では顧みる必要があるかもしれない。

自分の体の治癒力を高めることを常として、「静養して待つこと」が病気への対処として重要とする。そもそも病気にならないように気を養うことがもっとも大事。そんなことが養生訓に述べられてる。

 養生訓に出てくるキーワード「気をめぐらす」「元気を養う」「呼吸を整える」などは、ヨガにも通じる。具体的な養生の道は、多くの人に「養生訓」で読んでいただきたいし、読む価値があると思う。